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KANO(番外編)
2023-11-11
 先月初めて坊ちゃん劇場に行き、「KANO」を観てきました。ご存知のとおり、昭和6(1931)年、日本統治時代の台湾から甲子園に出場し、決勝まで勝ち進んだ伝説のチームのお話です。映画「KANO-カノ-1931 海の向こうの甲子園」を観ると、不屈の精神を感じ、力が湧いてきます。嘉義(かぎ)農林学校、略称「KANO」を率いた近藤兵太郎(ひょうたろう)監督が松山市出身で愛媛県にゆかりもあるし、お話にも笑いがあり、ミュージカルも楽しむことできました。

 しかし、その中で「日本人は土地や言葉を奪った」というようなフレーズもあり、その言葉を聞いて私は当時の台湾の人々の何パーセントくらい意見なのか疑問に思い、日本人は悪いことをしたという観客への刷り込みにならないか、命がけで台湾に赴任し、台湾の人々と共に発展のために尽くした日本人が気の毒すぎると悲しくもなりました。そして、坊ちゃん劇場で古川勝三(かつみ)先生(愛媛県宇和島市生まれ。中学校教諭として教職の道をあゆみ、1980年文部省海外派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務。)の本「台湾を愛した日本人」シリーズ3冊を買って帰りました。

 昭和3年の終わりに近藤兵太郎先生が嘉義農林の野球部コーチを、昭和6年4月に監督を引き受けられ、同年甲子園に出場したのです。そもそも嘉義農林学校を卒業すると、就職には困らないという時代であり、昭和4年には困難を極めた烏山頭隧道(すいどう・トンネル)竣工。昭和5(1930)年に当時世界最大だった烏山頭ダム竣工。同年、嘉南大圳(かなんたいしゅう・台湾で最大規模の農水施設。烏山頭ダム以外にも取水口があり、水不足・洪水・塩害の三重苦から人々を救い、嘉南平原を一大穀倉地帯に変えた水利施設。)が竣工していました。この嘉南大圳に貢献した八田與一技師より台湾の農民に有名な日本人、『蓬莱米の父』磯永吉博士と『蓬莱米の母』末永仁(めぐむ)技師の存在も大きいのです。このお二人の尽力により若苗理論が普及し、米の新品種や改良により、当時既に高値で蓬莱米が売れていて、住民の生活が豊かになっていることが推測できます。実際、家の屋根もお弁当の中身も変わっていたようです。

 それから言語についてですが、『新版日本国紀』(幻冬舎文庫)P136~138を読んでいただいた方が早いです。明治時代の日本は海外の新しい概念や知識を取り入れ、和製漢語を作り、数多くの欧米の書物を翻訳しました。東アジアで最高の国際言語だったのです。そもそも日本は台湾全土に学校教育を普及させていき、台湾人の教育水準を著しく向上させました。愚民化政策の真逆です。内地と同レベルの教育水準を目指したため、学校教育に力をいれ、文化・風習を禁止し、同化政策を行ったのは事実です。「三年小乱五年大乱」は昔からで、統治時代にも襲撃されることは度々で、苦しみました。昭和5(1930)年にタイヤル族による霧社事件があったことは事実のようなので、あのセリフがあったかもしれないです。しかし、親子で楽しむ運動会を襲撃し、殺戮するテロ行為にまで発展するような環境にあっても、日本精神に共感し、台湾をさらに発展させたい、と台湾の住民の中に共に力を合わせる人々が大勢いたこともあり、台湾を愛する日本人が心から尽力したのだと思います。そして、驚くほど超一流の人材が台湾に集結しているのです。明石元二郎第7代台湾総督(昭和7年~8年)(動画←ぜひご覧になってください!)は着任早々「台湾に暮らす日本人よりも台湾島民を第一として統治を行う」と言われたことも、命を削って台湾のために取り組まれ、「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃(倒)れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言されたことも、若い世代に伝えるべきだと思います。

 私は、古川勝三先生の『台湾を愛した日本人土木技師八田與一の生涯 改訂版(創風社出版)』『台湾を愛した日本人Ⅱ「KANO」野球部名監督-近藤兵太郎の生涯(アトラス出版)』『台湾を愛した日本人Ⅲ-台湾農業を変えた磯永吉&末永仁物語-(創風社出版)』に出会えて本当によかったと思います。現地の人の生の声を実際に聞き、書き留めていただかなければ、真実が分からず、歴史の影だけが強調された教育を受け、自国への誇りを失うところでした。

 八田與一の生涯の本の中で廣(広)井勇先生が「橋を架けるなら、人が安心して渡れるような橋を造れ、工学はそれを使う人たちのためにある」と語られ、法学部出身の官僚的出世主義を最も嫌われたことが書かれています。また、「廣井教授や青山(士・あきら)先輩のように、自分を生かせる土地に行ってみよう」「『官位や地位のために仕事をするのではなく、人類のためになる仕事をし、後の世の人々に多くの恩恵をもたらすような仕事』をしてみたい」と考える八田與一が、原書を片っ端から読破し、自ら創作する独創的な発想をする様子も生き生きと描かれています。私は廣井勇先生の精神が京都大学の宮沢孝幸先生にも受け継がれているように感じます。(し)  

追記
 今の価値観で過去を見たとき、間違っていることもあるでしょう。しかし、当時の時代背景、状況に思いを馳せて考える必要もあると思います。多数の民族が存在し、文化も異なり、互いに言語も通じ合わない中、まずは衛生状態をよくするには共通語を持ち、教育水準を上げる必要があったのだと想像します。乃木希典台湾総督のお母さまは、土匪が横行し、伝染病が多いから危険と説得されても、「危険だからこそ行くのです。総督が肉親を同行せずして、部下が家族を内地に残していくことを止められますか」と総督を叱り、渡台後間もなく、マラリアに罹り亡くなられたそうです。悩みながら、力を合わせ努力した人々の存在や過去を知り、歴史や異なる立場の人の視点を参考にすることで、よりよい判断や行動ができるように努めていきたいです。(し)



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