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ハンセン病絶対隔離政策と戦った小笠原登医師(番外編)
2024-10-17
私は、最近小笠原登(おがさわら のぼる 1888~1970)医師(以下、先生という)のことを知りました。

先生は、医学的知見に基づかないハンセン病絶対隔離政策に反対し、独自の医療を実践し、ハンセン病患者の人権を守るべく尽力されました。

ご住職であり、漢方医であったおじい様は、癩(らい) 病(=従来のハンセン病の呼称)患者の診察にあたっていたそうです。
そうした環境の中で、ハンセン病は感染しやすいものではないということを感じられていたようです。

「癩予防ニ関スル件」が「癩予防法」に改正・施行された1931年に小笠原先生は、『癩(らい)に関する三つの迷信』(『診断と治療』18巻11号)を発表されました。
しかし、学会においても認められることはありませんでした。県内からすべての癩病患者を療養所に隔離・強制収容させて、放浪患者や在宅患者を県内から一掃しようという『無癩県運動(むらいけんうんどう)』は1960年代まで続きました。
1943年、アメリカで「プロミン」という薬の有効性が証明され、1946年から日本でもプロミン治療が開始しました。
しかし、1996年に「らい予防法廃止に関する法律」が成立するまで、療養所への強制入所の規定はあっても退所規定を持たない法律が存在し続けました。つまり、入ったら出られないということです。

敬和学園大学の藤野豊先生の、小笠原先生のご実家である圓(円)周寺所蔵の文書解析によると、小笠原先生は癩予防法には医学的な誤りがあるが、国民としては法律を守らねばならぬという認識に立ち、法文を厳密に解釈し、隔離が必要かどうかを見極め、医学的知見により「病毒伝播ノ虞(びょうどくでんぱのおそれ)」がない患者は、隔離する必要がないと判断し、そうした患者を自宅療養=通院治療の対象としたそうです。見つかって療養所に入れられないよう隠れ続ける人生となるのに、治る前の治療途中で逃亡したり、患者さんの心配も多かったようです。

先生は非難や攻撃をされても、京都帝国大学医学部附属医院の別棟に設置された皮膚科特別研究室(以下、皮膚科特研と略す)で治療と研究を続けておられました。先生は勿論のこと、大学も権力や圧力に屈することなかったことで、真理を追求し、患者さんの人権も考慮した医学的知見に基づいた治療が続けられたことは本当に素晴らしいことです。

もっと早く法の廃止ができていれば自由になれたと思われる人々の人生を思うと、知見に基づかない政策、同調圧力や事なかれ主義の沈黙は、とりかえしのつかないことを引き起こしたり、思考を停止させたりする可能性があると思いました。また、前述の藤野先生が解析されているように、意見に追従して、史実がゆがめられていくのを是正しなければならないと思いました。そして、一度立ち止まって、データを見たり、根拠となるものを見直し、考える習慣をつけたいと思いました。(し)

動画https://www.youtube.com/watch?v=8f-fm0YN_3A←オススメ。4′30″頃〜


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